御林守河村家を守る会

アクセスカウンタ

zoom RSS 茂木先生は凄い!(見えることと見ること)

<<   作成日時 : 2010/06/04 05:42   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0

[島田市指定文化財]御林守河村家にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ


見えることと見ることがちがうのは、
どなたでも自分で試してみれば分かること。

いまパソコンの画面を見ているときも、
画面の外の風景が眼に入っている。

パソコンから視線をそらさず、
パソコンの外の風景を意識すると、
まわりがなんとなく見えている。

それでは、パソコンの外の風景の中の、
手近なもののひとつに視線を移して、
それを凝視してみると、
自分の意識の状態が変わることに気づくだろう。

おそらく、PETなどで脳の血流量をみれば、
ただぼんやり見えているときと、
はっきりと対象物を凝視しているときとでは、
まったく違う分布図をえがいているのだろう。

みなさんもお試しになったらよろしいかと思う。

ぼんやりとした視界のなかの
一点に意識を集中すると、
心の中心に、私が立ちあらわれてくる。

私、すなわち主観は、
そのとき、まざまざと立ちあらわれてくる。

さらにそれを即物的に言えば、
脳の働く場所が変わるように感じられる。

やがて、
見えるのではなく、
見ているとき、
見ている対象物へゆっくりと私がのり移ってゆくような、
脱自というか純粋経験というか主客未分の状態というか、
彼我の境界がうしなわれたような、
立ちあがった主観が、
ついには客体と一体化してゆくような感じがしてくる。

見えているのではなく、見ているときに、
見ている対象物から自分自身へ意識を移すと、
いわゆるメタ認知が立ちあらわれる。

ありていに言えば、
対象物を見ながら、
意識を自分に移すのだ。

そのとき、
見ている自分を見ることができるように感じられるのだが、
意識は対象物からすこし離れたようにも感じるられる。

脱自や純粋経験といわれる状態が、
薄れたように感じるだろう。

いわゆる、
客観、といわれる状態にちかづいていく。

見ている自分を見ているという状態を、
さらに無限に繰りかえすとき、
全き客観、
つまり神の視点にちかづく。

見ている自分を見ているいる自分を見ている、
ということを繰りかえすのだ。

そのとき到達する地点を、
純粋客観といってもいいのだろう。

しかし不思議なことに、
対象物から無限に離れて、
宇宙全体を見わたすような視座を得たとき、
それが、
主観を極め、
主客未分の状態を突き抜けたときの状態と
ほとんど同じであることに、
気づくのではないだろうか。

私が若き日にそれに気づいたとき、
日記にしるした萩原朔太郎の一文を思いおこした。

「最後に、
 詩的精神の最も遠い極地に於て、
 科学の没主観な太陽が輝いている。
 明白に、誰も知っている如く、
 科学は主観的精神を排斥し、
 一切「感情の意味」を殺してしまふ。
 故に科学にかかっては、
 道徳も宗教も型なしであり、
 知性の冷酷の眼で批判される。
 実に科学は、
 人生から「詩」を抹殺することにのみ、
 その意地あしき本務を持ってゐるように思はれる。
 しかもこの科学的精神が、
 宇宙の不思議に対する詩的驚異と、
 未知の超現在を探らうとする詩感に出発していることは、
 何といふ奇妙な矛盾だらう。」
 (「詩の原理」萩原朔太郎)

私の二十歳の日記に、この一文が記されている。

それは科学と小説のはざまで苦しんでいたころの記録で、
このように科学の純粋客観と、
詩の純粋主観とが、
無限の遠方で出会うと考えたとき、
それこそが智慧の極北、
解脱の地点かもしれないと考えたのだ。

以上のようなことを思うと、
底知れぬむなしさにおそわれる。

「見えている状態から見ている状態へ移るとき、
 まざまざと主観が立ちあらわれる」
と言い、また、
「純粋客観と純粋主観とが智慧の極北で出会う」
と言っても、
これらは絵空事にすぎない。

何も言っていないに等しいのだ。

なんの根拠もなく、
ただ、言葉を言葉によってなぞり、
単に並列的な説明を繰りかえしているにすぎないのだ。

私は科学の子で、
物質の存在を、
それが反証にたえ得ぬあやういものであるからこそ、
信じている。

キリスト者が神を信じるように、
科学の子である私は、
物質の存在を信仰しているのだ。

宇宙の森羅万象すべては、
物質のふるまいによってのみ説明され得ると、
信じている。

さきほど縷々述べたことは、
物質としての、
脳、
にすべて還元されねばならない。

物心二元論の誘惑を断ちきって、
凝視するときに立ちあらわれる主観の存在を、
科学的見地から証明しなければならないのだ。

科学的見地とは、
誰がいつどこで実験してもおなじ結果が得られること、
つまり再現性のある実験によって、
事実を証明することを言うのである。

茂木健一郎先生は、
脳におけるこの主観の座を、
「不変項ニューロン群」仮説
として提唱された。

私のつたない理解にすぎないが、
おそらくは脳の神経回路のなかに、
ノイズの少ない、
他の神経細胞より安定的なニューロン群があり、
それが主観をささえている、
ということなのだろうと思う。

きのうの自分と今日の自分、
いまの自分と明日の自分が、
安定的に一貫性を持って
持続しているように感じられるためには、
その自分という主観をささえる
安定的なニューロン群が存在するはずである
という仮説である。

これが証明されれば、
世紀のと言うより、むしろ、
人類史上の大発見となるだろう。

人類の発生以来、
絶え間なく人類を不安に陥れてきた
主観と客観の問題に、
はじめて強固な橋頭堡が築かれるのだ。

私はどこからきて、どこへゆくのか、
私はいま、どこにいるのか、
といった人類の根元的な疑問に答えるための、
科学的根拠が得られるのだ。

しかしそれが証明されてもなお、
クオリアへの道は、
まだ遙かであることを、
茂木先生は充分ご承知のことと思う。

このクオリアへの遙かな道を、
茂木先生は、
ご自身の天才という駿馬に乗って、
今なお先駆けている。

先生の前途に栄光のあらんことを祈念いたします。

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 3
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
茂木先生は凄い!(見えることと見ること) 御林守河村家を守る会/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる