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zoom RSS あまりの衝撃ゆえに

<<   作成日時 : 2011/09/17 08:05   >>

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心と脳に効く名言 言葉と測りあうために』茂木健一郎著。

第十章、小津安二郎の一節を読んで、衝撃を受けた。

芸術の核心を突いている。

私もブログを書かずにはいられずに、書こうとしたが、
一昨日からの風邪薬のせいで頭が朦朧としている。

それで、私の過去ログからいくつかの文章をひいてきて、
この衝撃の意味を少しでも理解しようと努めているところ。

茂木先生にお会いできてよかった。
しみじみ思う。

このような名品を読むことができる僥倖に感謝する。

以下、私の拙文。

************************



「小説を読むこと」


いまからお話しすることは、
おそらくどなたも聞いたことのないような説なのだろうと思います。

どうしてそのようなことを考えたのかと申しますと、
それは無数の小説を読んでいくうちに、
いくつかのふしぎな小説の一群に出あったからなのです。

それらの小説は、読みはじめてから読み終わるまで、
そうして読み終わったあとも、
とりたてて特別ななにかがのこるというのではないのです。

思いもしない物語の展開に飲みこまれるように読みすすんでゆくというのでもなく、
あたらしい知見を得られたというのでもなく、
異性の繊細なこころのひだ深くに、
あたかも自身が異性と化してそれにふれることができたというのでもないのです。

おそらくみなさんにもそのような経験がおありだと思うのですが、
読んでいるうちも、読み終わってからも、
森の奥の、つめたい谷水を掬って飲みほしたときのようなさわやかな印象、
生命がしずかに覚醒するような爽快感を味わったことはありませんでしょうか。

それは手の込んだ料理を食べたというのではなく、
とてもシンプルな飲み物にすぎないのだけれども、
すんなりと喉をおちるとそのまま全身にしみわたって栄養となるような作品。

過去の幾多の天才たちの作品のなかに、
きっとひとりひとりにふさわしいそのような作品があるはずなのです。

ふさわしいというのは、
しっくりくる、あるいは無理なく自分と同化できるという意味です。

それでは、何が書かれているというのでもないそれらの小説が、
私になにをもたらしたというのでしょうか。

つづきはまたあした。


「崇高にして表しえぬもの」


小説の文体が好きなのか、そこに書かれている内容が好きなのか、
と問うのはあまり意味がないように思います。

文体はあとからついてくるもので、
作家たちかそれぞれ書こうとするもの、
それは歴史であり、幻想であり、生命を活写することであったりしますが、
それらは単に題材にすぎず、
彼らが本当に表現しようとするものはそのむこうにあるのです。

さまざまな楽器が、それぞれのかなでる音色はちがうように、
そしてどの楽器にせよながれる旋律はかわらぬように、
文体のちがいというのは、
作家たちがあらわそうとするあのもの、
それは普遍とも無常とも神ともよばれるあのもの、
その表しえぬものへ到る道のちがいにすぎないのです。

ひとりは急峻な雪渓の道をえらび、
ひとりは雲雀の鳴くなだらかな道をえらぶとしても、
彼らがみな仰ぎみるのは、
あの崇高にして表しえぬものの荘厳な頂(いただき)です。


「印象批評」
(「小林秀雄の霊が降りてきた」茂木健一郎氏『文藝春秋』2006.3を読んで)


私は若いときから
意図して
自分がよんだ本のタイトルも作者も
すっかり忘れるように努めています。

著名な作品名であるとか、
文豪としての作者名であるとかは
私にとって何の意味もないからです。

一度しかない人生だから
そんな些末のことにとらわれたくないのです。

自分にとってなにが大事なことなのかを考えると、
それはその本の内容、
とりわけその作品のもつイメージ、
つまりは印象です。

こころに残るのは優れた作品の印象だけだからです。

ルソーの「孤独な散歩者の夢想」のなかで、
主人公が木陰でうっとりと夢みるシーンは、
ルソーという作者の名前や本の表題からはるかに離れて、
天上の調べを聞くようです。

私はそのような、
美や真実の善き境地を求めているのであって、
単なる知識を求めているのではありません。

天才の作品を分解して
死体を検分するように解析し報告されても
何の感慨もわきません。

それはそれで文学と呼ばれて、
研究者の生活の糧にはなるのでしょうけれども、
本当に人々は
そんなものを求めているのでしょうか。

自分が死に臨む
そのときのことを考えてみてください。

己が生きてきた証として、
愛読した書物の
何を最後に思いうかべるのでしょう。

作者の名前ですか、
本の題名ですか、
その作品の分析論文ですか、
たしかにそういう人もいるのかもしれません。

しかし多くの人は
名作に陶酔したその印象を
こころに浮かべるでしょう。

言葉に言い表し難い作品の印象、
まさにそれをクオリアと呼ぶのです。

そのような意味で、
私は、
茂木氏の「クオリア原理主義」を奉じる者です。

したがって、
作品を批評するときは、
その印象、
つまりはその作品のもつクオリアをこそ
第一義に論じるべきでしょう。

天才がこの世に残した宝石を、
いかに成分分析しても
そのスペクトルを解析しても、
そこからは
作品のはなつ至高の美しさは
見えてきません。

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