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<<   作成日時 : 2014/04/11 06:12   >>

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脳科学者茂木健一郎先生と御林守河村家住宅


大塚勲氏は、
平成二十二年(2010)発行の『戦国大名今川氏四代』のなかで、
新たな史料を提示して次のように述べている。

******************************


早雲の遠江乱入によって、
遠江の守護勢力がそれほどでもないことを知った氏親は、
明應五年遠江に進出することにした。

<説明: 北条早雲が遠江に侵入したのは名應三年(1494)のことで、
この様子は『円通松堂禅師語録』に詳しく記されている。>


これを察知した駿河に近い佐野郡山口郷奥野(掛川市大野)の長松院は、
直ちに氏親に願い出て、七月十八日
「当寺長松院に於いて、甲乙人等濫妨狼藉せしめば、速やかに厳科に処す者なり」
という禁制を下付された(長松院文書)。

<説明: この禁制については前回前々回と詳述した。
       これを端緒として、東遠の地に国人領主間の抗争が勃発する。>


なおこの二カ月後の九月十日、
山口郷一帯(掛川市の東部)を知行していた川井蔵人成信が討死している
(円通松堂禅師語録巻第四)。

<説明; 名應五年九月十日、今川方河井宗忠が戦死する。>


これは斯波一族と思われる上野介寛親の書状
(古文書纂所収六月十六日付書状)に
「遠州の儀、故なく駿州今川方競望、(中略)被官人不慮の取合」
とあるような、今川氏の遠江侵攻前夜の混乱の中での
国人たちの争いの一齣であろう。

<説明: 斯波方国人領主(被官人)間でさえ 「不慮の取り合い」が起きるほどの混乱であったから、
ましてや今川方であった河井氏は、斯波方からの格好の標的とされた。
しかし河井宗忠(成信)は、今川斯波の確執を越えて人望高く評価された人物であった。
それゆえ、斯波方の盟主であった原一族の松堂高盛禅師からも、
格調高い偈(げ・徳を讃える韻文)が贈られている。
それは『円通松堂禅師語録』の三個所にみとめられる。>

*******************************


明日もまた、
河井宗忠戦死は今川氏親侵攻によるものではないことについて、説明しよう。

14.04.11.
(筆者 島田ロータリークラブ幹事 河村隆夫)

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