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zoom RSS 茶と剣(2)

<<   作成日時 : 2017/02/10 06:54   >>

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(写真は 吉田松陰 橋本佐内)

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茶と剣(2)

第一章第二節

東京での数か月の遊学のさなかに、宗平のもとに弟織平の死の知らせが届いた。
夭逝する者らしく、織平は純粋で優れていた。それは残された書の姿を見れば誰の目にも明らかである。

織平の死を知らせる宗平宛の書簡は、
父子の関係がよほどこじれていたものと見えて、差出人が父市平ではなく、
祖父逸平の名であった。
この父子の激しい相克は、明治9年の小区会議員選挙のとき、
河村家から父と子が対立して立候補したことからも明らかである。
もちろん父市平は当選したが、次席となった。

明治12年の戸長選挙では、河村宗平が大代村戸長に当選している。
宗平21歳の若さだった。
そのころの宗平は、全身が青く透き徹ってゆくような溢れるエネルギーを幾たびも感じた。
それはどこへ噴き出してゆくのか戸惑うほどの強いエネルギーだが、
その力を活かして進むべき明確な道はまだ見えてこなかった。

ところで、宗平が幼いころ、お茶はたいそうな値で異国に売れるそうだ、
と父市平が母ことに話していたことがある。
すでに安政三年には神戸港から英国へ、高値でお茶が輸出されていたから、
それを新橋炭会所の役人から聞いたに違いなかった。

宗平が生まれた安政五年になると、日米修好通商条約が結ばれ、
女性貿易商の大浦慶が緑茶一万斤を輸出している。

しかし世相は風雲急を告げていた。
吉田松陰と橋本佐内が斬首刑に処されたのは安政六年、宗平一歳のことである。
松陰二十九歳、佐内二十六歳であった。
当時西欧の科学技術は急速に進展し、西洋と東洋の国力の格差は急速に開きつつあった。
松陰や佐内など幕末のすぐれた若者たちは、西欧科学文明の脅威、それは蒸気戦艦や大砲などの軍事技術における彼我の格差を知って、幕政変革の急務を訴えていた。
日本人が馬や籠に乗っていたころ、英国では、蒸気機関車が、高い陸橋や地下のトンネルを走っていたのである。
幕府の要人は、出島から送られてくるオランダ風説書から、そのような西欧科学の急激な進歩を知っていた。松陰や佐内はその事実にたどり着き、風説書を読みながら太平の安穏を貪る幕閣を糾弾したのである。
佐内がどれほど優れていたか。佐内は、国際連盟を予見していたのである。
彼らが首を落とされた翌年、安政七年に、水戸脱藩の若者たちの手で、大老井伊直弼が斃される。世にいう桜田門外の変である。

明日はお休み、あしからず。
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