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zoom RSS 茶と剣(14)

<<   作成日時 : 2017/02/27 07:50   >>

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(写真は 大浦慶wiki)

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茶と剣(14)

ここで少しだけお茶の話に戻る。

遠州大代村に河村宗平が生まれる三十年前、
文政十一年に、
遠く離れた長崎の地に油問屋の娘として大浦慶が生まれた。

「御老中でも 手が出せないは 大奥・長崎・金銀座」
とうたわれたほど、長崎は独立した貿易都市の様相を呈していて、
オランダや清との貿易がもたらす潤沢な富に潤っていたが、
わずかな在任期間の長崎奉行などにはとても掌握できず、
その利権は大浦家など町人の手に握られていた。

嘉永6年といえば、
米国のペリーが来航するらしいという噂は
別段風説書の内容が漏れたとみえて
すでに九州一円にまでひろまっている。

さっそく長崎の女性商人大浦慶が、
出島のオランダ人に嬉野茶のサンプルを渡して英米などに送り、
3年後の安政3年、神戸港から英国へ嬉野茶を輸出している。

安政5年には
タウンゼント・ハリスの来日によって
日米修好通商条約が結ばれたことで、
大浦慶は英国商人ウィリアム・ジョン・オルトから
一万斤(6トン)の茶の注文を受けて米国へ輸出している。

ちなみにこの安政5年、
まさに茶貿易の黎明期に河村宗平は誕生したのである。

安政6年には開港した横浜港から茶の輸出がはじまり、
安政7年にはオルト商会が茶工場を設立し巨額の利益を得るなど、
茶は外貨の稼ぎ頭として急激に脚光を浴びはじめる。

文久元年には、坂本龍馬との取引で有名な
グラバー商会が長崎に設立された。
当時の輸出茶は九州産のものが多く、大浦家も全盛を極めた。

ここですこしグラバー商会の本社ジャーディン・マセソン社について
紹介しておこう。

ウィリアムジャーディンの創業したジャーディン・マセソン社は
英国東インド会社からはじまり中国との貿易を主としていたが、
徳川幕府が欧米との通商条約を締結して、
安政6年(1859)に横浜港が開港すると、
翌万延元年(1600)横浜支店を設立した。
その輸出品目の代表が生糸と茶であった。

これは維新後のことになるが、日露戦争に日本が勝利すると、
明治38年(1905)にジャーディン・マセソン社は
横浜から静岡へ移転することになる。

静岡移転の理由はいくつかあって、
すでに明治32年(1899)には
清水港が貿易港として開港場指定されて、
茶の海外直接輸出が始まっていること、
また静岡県では特に製茶機械化の発達によって
工場規模の縮小が可能になり
静岡の市街地でも工場が設立できたこと、
などが主な理由である。

ところで明治11年に、
貿易会社「起立工商会社」のパリ支店を訪れた
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホが、
茶箱のふたに『ヒヤシンスの球根』を描いたことで、
佐賀の嬉野茶はさらに有名になる。

このように、茶は当時の重要な輸出産品であったが、
明治維新後、茶の産地は九州から静岡へ移った。

それは中條金之助景昭を隊長とする牧之原開墾方によって、
金谷に大茶園が誕生したからであるが、
しかしそれはペリー来航の20年ほど後のことでもあるので、
もういちど安政3年(1856)へ戻って、
下田に向かうハリスに会いに行くことにしよう。

つづきはまたあした。

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