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zoom RSS 山岡鉄舟鉄扇(10)十二代河村宗平のこと

<<   作成日時 : 2017/02/08 07:02   >>

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(十二代河村宗平)

島田市博物館企画展「島田の刀鍛冶と天下三名槍」開催中!
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山岡鉄舟鉄扇(10)十二代河村宗平

曾祖父河村宗平は、江戸末期の安政五年に、
最後の御林守十一代河村市平の長男として生まれました。

明治維新で刀も地位も奪われた市平は、
嫡男宗平に、この家の将来を託しました。
宗平は、静岡や東京に遊学したあと、市平に請われて帰郷すると、
当時この地域の新興産業であった茶業に身を投じました。

明治二十一年、宗平に転機が訪れます。
農商務省一等技手多田元吉が牧之原茶園で講演をすることになったのです。
その講演記録の『茶業改良法』を熟読し、
はじめて榛原郡製茶共進会品評会に出品して四等賞の褒状を手にします。

明治二十三年、宗平は牧之原開墾方隊長中條景昭と土地係争問題で知遇をえます。

明治二十五年、多田元吉は幕臣の中條景昭から河村宗平の名を聞いて、
「製茶師競」の世話人に宗平を抜擢します。
「製茶師競」とは、当時の手もみ製茶の技師・茶師の番付表で、
静岡県全域の茶師が網羅され『島田・金谷の茶業史展』(島田市博物館)に
写真とともに掲載されています。

その後、金谷茶業研究所の製茶教授、製茶競技會審査員などを歴任したあと、
明治二十九年から二年間、愛媛県喜多郡緑茶製造試験場の教授に招聘され、
明治四十年五月には、宇治茶の生産地京都市宇治へ
「京都、大阪、滋賀、奈良、三重二府三縣製茶研究所緑茶教師」として招聘されました。

このときの委嘱状は、
明治期にお茶の製造技術の優位が、宇治から静岡へ移った画期の証拠として、
これも『島田・金谷の茶業史展』に写真とともに掲載されています。

明治四十三年には、お茶の生葉を加熱するための熱風火爐の開発に参画し、
榛原式熱風火廬を完成させました。

宗平はその後、金谷から飛躍して静岡県全域の茶業に貢献することになります。
明治四十三年から四十四年まで、静岡県の緑茶製造にかかわる職を務め、
ついで明治四十五年五月一日、静岡県製茶監督員を拝命することになりました。

静岡県製茶監督員とは、県知事直属の職務で、
いわば茶業におけるFBIとして警察権を行使しながら、静岡県全域の茶業における不正の摘発などに目を光らせました。

山間の本宅は、多忙をきわめる彼には不向きだったようで、
公職におわれているあいだのほとんどを、宗平は町内の別宅で過ごすという、
その当時の典型的な不在地主でした。
本宅は、大津村初代村長駒形蘭氏の娘、妻ちせが守っていました。

大正十一年に職を退いたあと、はじめて宗平は本宅に腰を落ちつけ、
茶業史の編纂に加わるなどして大代の地で余生をおくることになります。

ところで宗平には男子が無く、
長女千年世、次女喜悦、三女みつ、の三姉妹だけでした。
三人目に男子が授からなかった落胆からか、
三女の名だけひらがなの二文字をつけていて、
みつは生涯それを不満に思っていたようだったと、
みつの長男故滝利郎氏(焼津市)から聞いたことがあります。

宗平は、長女千年世の婿養子に、
刀を奪われて権威をうしなった河村家の相続人として
「誰よりも強い男」を探しました。

それがやがて私の祖父となる人、大関小次郎だったのです。

(明日から「茶と剣」シリーズをはじめます。)

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