御林守河村家を守る会

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zoom RSS 茶と剣(1)

<<   作成日時 : 2017/02/09 05:37   >>

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(写真は 御林守河村家十二代河村宗平)

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茶と剣(1)

のぼってゆく坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、
それのみを見つめて坂をのぼってゆくであろう。
これは『坂の上の雲』の一節だが、まさに河村宗平はそのような明治精神を生きた。

宗平が生まれた安政五年はペリー来航の5年後のことで、やがて明治維新を迎え、
すべての旧弊が破壊されたあとの青空を見あげる青年宗平の目に映ったのは、
坂の上の一朶の白い雲であった。

宗平は、当時の花形輸出産業である茶業に身を投じた。

その後幾多の偉人に出あい、茶師として、また研究者として名をあげ、
愛媛県や宇治茶の本場である京都から緑茶教師として招聘され、
明治四十三年、浮月楼で開催されたチリ公使晩餐会にも招待された。

そうして明治四十五年、静岡県知事松井茂から「静岡県製茶監督員」に任命されて、
静岡県全域の茶業を監督することとなったのである。

「茶と剣」に登場する男たちの物語は、
茶業史の『坂の上の雲』としてお読みいただければ幸いである。

第一章 青年期まで

第一章第一節

御林守河村家十二代河村宗平が誕生した安政五年といえば、ペリー来航の5年後で、
幕末の騒乱がまさに始まったころのことである。

父は最後の御林守である十一代河村市平、
母ことの栗田家は、国学者栗田土満(ひじまろ)を世に出した掛川中内田栗田家の縁戚にあたる。

御林守市平のもとには、懇意にしている幕府炭会所の役人から、
幕末日本を取り巻く不穏な情勢が矢継ぎばやにもたらされた。

とは言え江戸時代の民の固定観念として、徳川幕府は永遠に盤石であって、
幕府瓦解などだれも夢にも思うことはなかった。

この幕末の争乱が遠州北部の御林守河村家にどのような変化をもたらしたのか、
それはのちの章で語ることとしよう。

明治維新のあと、御林守河村家は、刀と禄を失い、同時に幕臣との交流も失った。

うなだれる父の背を、宗平は苦々しい思いで見た。
東京では、若い下級武士たちが、次々と明治政府の要職に就いていく。
意気盛んな宗平は、河村家の没落よりも、この動乱の時期を、ひとつの契機と捉えた。
いまだ戦塵のおさまらぬ風潮のなかに、むしろ大きな夢を見たのである。

幸い河村家は、御林守の役職を解かれて刀と禄を失ったとはいえ、
所有していた山林と田畑宅地は江戸時代のままだった。

それゆえ明治維新から昭和二十年の敗戦まで、河村家は地主階級に属していて、
江戸時代と変わらぬ数百俵の米がいつも蔵に積まれていたのである。

明治から戦前にかけての多くの地主たちは地方政治にかかわった。
実際、父市平は、維新後まもなく敷かれた新制度の議員となった。

彼ら地主階級は、旅の宿帳に「無職」と書いたりしたものだから、
宿屋の主人は「無職」と見ると、金離れのいい客として喜んだものだった。

武士が土地を支配する時代が終わり、明治以降は、
主に山林地主や、豪農、豪商などが土地を支配する時代となったのである。

宗平は上京した。時代の空気を胸いっぱい吸ってみたかった。

江戸から東京に変わると、大名や藩邸の侍たちは皆それぞれの国元へ帰った。
幕臣たちは、徳川慶喜とともに静岡へ移封された。
そうして残された東京の夥しい空き家に、
薩長土肥の若い下級武士たちがふんぞり返って棲みつき、
さらに広大な大名屋敷跡などは新政府の役所となった。

街には若者が溢れ、新時代を築くという気概がいたるところに感じられた。

つづきはまたあした。

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