御林守河村家を守る会

アクセスカウンタ

zoom RSS 「ローマ帝国衰亡史」抄(1)

<<   作成日時 : 2017/08/29 16:52   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

このシリーズをお読みになると、「ローマ帝国衰亡史」の概要が把握できます。

「ローマ帝国衰亡史」抄

「人類という存在が、恩恵者よりも、むしろ破壊者に向かって、より惜しみない賞賛をおくるものであるかぎり、軍事的栄光への渇望は、いかに崇高な人物といえども、ついに免れ難い悪徳なのであろう。」

「ローマ人とは、どこでも征服すれば、必ずそこに居つく人間」というのが、けだしセネカの名言であり、事実それは歴史によっても、経験によっても実証されている。
ローマ皇帝により常備軍団が置かれるようになると、これら諸属州はたちまち軍人兵士たちの定住地となり、また土地や金の形で退職金を受けた退役兵群も、たいていはその青年時代を名誉ある軍人として過ごしたこれらの土地に、家族もろとも住みついてしまったのである。」

「ローマ軍に対する恐怖ということも、皇帝たちの宥和策にとって、たしかに威厳と重さとを加えていた。つまり、たえず戦いに備えていることによって、逆に平和を守ったのである。」

「勝利者ローマもギリシア文化の前には屈したとする説、陳腐かもしれぬが、見解としては正しい。
(略)ギリシア文化の魅力は認めながらも、あくまでもラテン語の威厳は守り抜いた。そして内政や軍政の執行には、頑固なほどラテン語の使用がつづけられた。結局これら二つの言語は、同時にそれぞれ別の支配権を、全帝国に向かって発揮することになる。すなわち、学問の言葉としては当然ギリシア語が、公務執行の法定語としてはラテン語が、それぞれ使われるようになった。」

「この国内的統一と平和というのは、まさしくローマ人が行ってきた宥和包容政策の生んだ当然の結果だった。(略)非征服諸民族も、すべて巨大な単一国民に溶け込み、ふたたび独立をかちとる希望、いや、願いをすら放棄したばかりか、ローマ帝国を離れて、自国の存在などほとんど考えなくなった。(略)軍隊はもっぱら帝国の敵と戦うためだけで、民政官には(国内的には)軍隊の援助などほとんど必要でなかった。」

「これら諸都市は、それぞれ相互間とも、またローマ市とも国道によって結ばれていた。(略)とにかくローマ国道の堅牢さは大変なものであり、その後十五世紀間にわたる使用を経たのちも、いまなお完全には磨消していない。おかげで、どんなに遠い辺境の属州民でも、きわめて容易な接触で、お互い結ばれていたのだった。ただこれら国道の第一目的は、軍隊の移動を容易ならしめることにあった。いかなる国も、その隅々にまで、征服者の武力と権力が感じられるようになるまでは、決して完全な帰属とは考えられなかったからだ。(略)
この広大な帝国に関しては、道理上からも、非難の意味からも、いろいろとその弊を指摘する向きもあるが、やはりその実力は、人類にとり幾多好ましい結果を齎したはずである。なるほど、この交通自由が多くの悪徳をふりまいたこともあろうが、同時にまたその同じ自由が、社会生活の向上ということを普遍化させた功績も大きい。」

「こうした粋は、とかく奢侈という悪名の下に、いつの時代でも道徳家たちから厳しく糾弾されるのだが、たしかにもし人々が生活必需品はすべてあたえられ、余計な贅沢品など所有するものがいなくなれば、それが人類の幸福のみか、徳性をまで向上させるだろうことは、おそらく事実であろう。が、現在のように不完全な社会では、たとえそれが悪徳ないし愚行から発するものにせよ、案外贅沢ということだけが、財産配分の不平等を矯正できる唯一の途かもしれぬのである。(略)
かりにもし奢侈品の製造や売買が、ローマの武力や権力の奪い取った夥しい富を、知らず知らずまた勤勉な人民へと還元していなかったならば、おそらく属州などは、たちまち疲弊しつくしたことであろう。」

「最初はアテナイ人の知恵によって発明された社会生活、法律、農業、および学問に関する真の原則が、いまやローマ帝国の権力によって確立されたのであり、その良き効果のおかげで、もっとも未開の蛮族までが、平等統治、共通言語の下、見事に統一された事実を、人々もはっきり認めた。(略)
だか、長いこの泰平と、ローマ人による劃一統治とは、徐々にではあるが、帝国の核心部に、ひそかな毒を持ち込んでいた。天才の火は消え、尚武精神までが霧消してしまったのだ。(略)
かつては勇敢無比だった指導者層の後裔も、いまではただの市民、ただの臣下というだけで満足していた。たまたま高志を抱いた人物も、これまた宮廷に仕官するか、さもなくば帝国軍隊に身を投じるか、どちらかという始末。一方過疎化する地方属州は、政治力も統一も失ってしまい、知らず知らずのうちに、だらけた私生活の無関心さに転落して行った。」

「プラトンやアリストテレス、ゼノンやエピクロスなどの権威が、依然として諸学派を支配しつづけ、弟子から弟子へと、ただ盲目的尊敬をもって伝承されるこれら哲学体系が、人間精神の能力を活かし、その限界を拡めようという高貴な試みを、かえって締め出す結果になっていた。(略)
いまや真の「詩人」の名はほとんど忘れられ、また「雄弁家」のそれも、すでに詭弁家によって取って代られていた。ただ夥しい批評家、編纂者、註解者といった連中だけが、学問の顔を蔽い隠し、こうした精神の衰退は、まもなくつづいて趣味の堕落という結果を招くことになった。(略)
人類のこの矮小体躯は、日とともに古代基準から落ちていたのであり、いまやローマ世界は、文字通り侏儒の住家となり下がっていた。しかもそのとき、突然扉を破って乱入しきたり、この侏儒的種族を一新させたものが、獰猛果敢な北方の巨人たちだった。彼等こそは雄々しい自由精神を回復し、十世紀間にわたる革命の後、ふたたびまた自由を知識と趣味との幸福な母にまで高めたのだった。」

「そこでこの元老院改革というのは、いわば集団的暴君を敬遠し、みずから国父と名乗るために、アウグストゥスの打った第一着手の一つだったのだ。(略)
かくて自由体制の大原則は、回復不可能の打撃を受け、立法権までが、行政府の任命を受けるようになった。
こうして改革された元老院を前に、彼は丹念に想を練った一場の演説をぶちあげた。それは彼の愛国心を誇示するとともに、巧みにその野心を偽装していた。(略)
アウグストゥスの誠意を信ずるのも危険だが、さればとて疑念を見せることは、なおさら危険だった。(略)
アウグストゥス帝は広大な実質特権を獲た。すなわち、文字通りローマ市およびイタリアの主となったのである。(略)
しかもこうした数々の栄誉の上に、さらにアウグストゥス帝の政策は、大神官および監察官という重要かつ輝かしい栄職までも併せ兼ねることにした。(略)
言葉をかえていえば、まことに包括的な約款により、これが国家のためと判断し、公私、霊俗いずれを問わず、帝位にふさわしいと考えた措置は、なんでも直ちに実施できる機能をあたえられていた。それが皇帝だったのだ。」

「要するに、アウグストゥス帝によって整備され、その後もよく自身の利害と国民の利害とを心得た後継者皇帝によって守られた帝政機構というのは、一言にしていえば、共和政体という擬態を装った絶対君主制とでも定義すべきか。つまり、これらローマ世界の主人たちは、玉座のまわりをできるだけ暗黒で囲み、強大無比なその権力をひたすら隠しながら、表面はいかにも低姿勢で、元老院から託された権能を行使する責任行政官にすぎず、したがって、前者の最高命令には絶対服従、ただそれを指令するにすぎぬかのごとく公言していたのだった。
宮廷もまた、表向きは政府形態と同様だった。(略)とりわけ私生活面においては、あたかも臣下と同格であるかのごとく振舞い、相互訪問や招待宴などについても、極力対等の交際をつとめた。
皇帝の神格化ということ、これだけはどうも彼等が旨とした深慮、謙虚からはずれた唯一の例外だった。この下劣瀆神の阿諛慣習をはじめたのは、アジアのギリシア人であり、そのまた最初の対象は、アレクサンドロス大王の後継者たちだった。(略)
たしかにアウグストゥス帝もいくつかの属州都市に、ローマへの崇敬と皇帝礼拝を一にするという条件つきとはいえ、彼を崇める神殿建立のことを許した。(略)
だが、彼としては、ただ人間として元老院や国民から尊重されるだけで満足だったのであり
国家的に神格化されることは、賢明にも後継者の判断に委ねたのだった。」

「アウグストゥス帝が、結局はみずからその手で破壊しながら、しかもなお自由体制に対しある種の敬意を持ちつづけたという事実は、一にこの老獪きわまる専制者の性格を考えて、はじめてわかるように思える。冷静な頭脳、感傷抜きの心情、臆病といえるほどの慎重さ、そうしたものが、わずか十九歳のこの青年に、見事偽善の仮面をつけることを教えたのであり、以来最後までこれを棄てることはなかった。(略)
巧妙きわまる帝国的体制をつくり上げるとき、彼が示した中庸策というのは、明らかに恐怖、不安から生まれたものだった。一般市民には市民的自由という虚像、軍隊に対しては文民統治という虚像をもって欺いたのである。(略)
公然たる反逆ならば、軍隊の忠節が権力を護ってくれるかもしれぬが、断固たる共和主義者の短剣の前には、いかに厳重な警戒も、身の安全を護ることはできなかったわけ。しかも、いまだにブルートゥスの遺名を尊敬しているローマ市民たちは、おそらくその徳に倣うものに喝采を送ることであろう。カエサル自身は、権力そのものもさることながら、むしろそれを誇示することによって、悲運を招いたともいえる。単に執政官、護民官というだけならば、あるいは平和裡の統治もできたのかもしれぬが、王という称号がローマ人たちを駆って、生命までも奪わせたのだ。人が名によって支配されるものであることを、アウグストゥス帝は知り抜いていた。」

「マルクス・アウレリウス帝の温厚さは、厳しいストア哲学による鍛錬をもってしても、なお矯正することは不可能だったばかりか、唯一の欠点ともいうべき性格的弱さにまでなっていた。あのすぐれた知力ですらが、疑うことを知らぬ人のよさによって、しばしば裏切られていた。(略)また義弟や妻子に対する過度の寛容も、彼等が犯す数々の悪徳、およびそれらがもたらす結果から見れば、もはや個人的道義の問題をこえて、一種の公害にまでなっていた。(略)
子息コンモドゥスのおそるべき悪徳は、清浄な父帝の高徳に、いわば一抹の暗影を投げてきた。」

(FB連載1〜12)

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
「ローマ帝国衰亡史」抄(1) 御林守河村家を守る会/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる