御林守河村家を守る会

アクセスカウンタ

zoom RSS 明治40年、河村宗平に、宇治茶研究所から製茶教師の招聘状

<<   作成日時 : 2018/03/12 06:21   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

画像


明治40年、河村宗平49歳のとき、宇治茶の本拠地である「京都大阪奈良滋賀三重製茶研究所」の緑茶部教師に招聘されている。

もちろん明治初年には金谷茶より宇治茶が、質量ともに圧倒的に優位であった。夏のアイスに宇治金時があるように、いまでも宇治茶はブランドである。

明治初年には、剣士の拓いた金谷原大茶園はいまだ完成していなかったし、榛原郡茶業伝習所ができるのは明治17年のことだから、最先端産業である茶業の頂を仰いで、20代の宗平は燃えるような希望をいだいた。

それから20年ほどたって、49歳の宗平のもとに一通の嘱託状が届いた。
それは、宇治茶の本拠地からの、製茶教師の招聘状であった。

この嘱託状について、『島田・金谷の茶業史展』(島田市博物館、2004年)にこのように書かれている。

「金谷大代の河村宗平も愛媛や京都に赴き静岡の手揉みの技を指導して回りました。元々京都の宇治地方を発祥とする手揉製茶の技術でしたが、幕末から明治期に静岡県で広まった手揉みの製法は、静岡のお茶師たちによって、さらに高度な技へと発展し、江戸時代まで茶業の先進地域であった近畿地方で逆に導入されるまでになりました。」

金谷茶が宇治茶を凌駕した画期として、この嘱託状の意味するところは大きい。
ここには製茶機械化については触れられていないが、「さらに高度な技へと発展し」とは、今まで見てきたように機械化による最先端の製茶法に発展したことを意味している。

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
明治40年、河村宗平に、宇治茶研究所から製茶教師の招聘状 御林守河村家を守る会/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる