etude65

どんでん返しが待ちうけていました。

安政七年正月二十二日(1860年2月13日)に
横浜を発ったパウアタン号は、
遣米使節団七十七名を乗せて、
ホノルル、サンフランシスコ、
パナマを経由してアスピンウォール、
ワシントン、フィラデルフィア、
ニューヨークの各都市を訪問した後、
アメリカ最大の軍艦「ナイアガラ号」に乗船して、
大西洋、インド洋を経て、
万延元年九月二十八日(1860年11月9日)に
江戸に帰港しました。

どのようなどんでん返しか、ですって?

みなさん、
幕府の遣米使節団が、
どれほどアメリカで熱狂的に迎えられたか
憶えていらっしゃることと思います。

目も眩むほどの空前の大歓迎をうけて、
トミー(立石斧次郎)などは、
ほとんどアイドルのようにあつかわれ、
有頂天の日々をおくったことを
憶えていらっしゃることと思います。

アメリカは、数十万ドルの巨費を投じて
遣米使節団を名士として歓待したのです。

ところが、
江戸に帰港した彼らを待ち受けていたのは、
凱旋式も花火も、
見物人すらいないまことにさめた風景でした。

ナイアガラ号のアメリカ士官たちは、
あっけにとられ、騙されたと感じたのでした。

アメリカ女性を虜にしたあのトミー(立石斧次郎)の正体は、
税関の三等通訳にすぎないことも
かれらは知りました。

政府の高官とばかり思っていた使節団の上役は、
じつは老中と同席できぬほど身分の低い役人であったことも
知りました。

早々にお帰り下さいと、
幕府は暗に帰国を促しさえしたのです。

考えてみれば、やむを得ぬことかもしれません。

遣米使節団がフィラデルフィアにいるころ、
桜田門外の変がおきたのです。

日本では攘夷の嵐が吹き荒れていました。

最新西洋情報に腰を抜かしている幕府と、
尊皇攘夷の激情に剣を抜く志士たちと、
開国か攘夷か、
激動のるつぼのなかへナイアガラ号は帰港したのです。

********************

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載65回

(『万延元年の遣米使節団』 宮永孝)
 1860年3月~9月 世界一周して帰朝)

「アメリカでは日本人のために大宴会やダンス・パーティを催し、
 諸処を案内し、ちやほやもてなしてやったから、
 かれらは大いに満足を覚えたであろうが、日本人側からすれば、
 われわれはどんなに馬鹿者に見えたことか!

 日本の特権階級の連中に比べてどんなに低級に見えたことか!
 そして、わが国の女性たちが熱をあげた
 あのいとしいトミー(立石斧次郎)は、
 使節団に加わる前に何をしていたか御存知あるまい。
 はっきりいうと、かれは税関の三等通訳であったにすぎないのだ。
 われわれは葉巻の吸いさしをせがまれ、うんざりしたものだ。
 何か急いでしてもらう仕事があれば、
 葉巻の吸いさしか一、二本の葉巻を与えてやると、
 魔法にでもかかったように働く程度の人間であったのだ。

 ナイアガラ号の士官たちがびっくりし、
 かつ一杯食わされたと思ったことが数多ある。

 首相(老中安藤対馬守信行のことか)が小宴を張ったとき、
 あの使節団の面々は、二、三の例外はあったが、
 士官たちが退席するまで、
 座敷のまわりにひざまずいたまま
 何時間もじっと畏まっていたことである。
 なかには老中や招待客の士官たちに給仕をしている者さえいた。

 有名なトミーに至っては、
 そんな席に出られるほどの身分ではなかった」

「日本政府(幕府)はナイアガラ号の艦長および士官らに、
 宿舎としてある寺を用意しており、
 生活上必要なものは、馬でも何でも無償で提供するといっていた、という。
 ところが寺には厨房(台所)がまだ整っておらず、
 士官たちは江戸に上陸した第一目は卵だけを食べて我慢したらしい。
 そして、馬は毎日二十頭欲しいと役人にいうと、
 「残念ながら十頭しか差し上げられません」と答えたという」

「私たちはひじょうに骨を折って、ナイアガラ号の到着以来、
 幕府が同艦に贈った品々のじっさいの量を確かめることができた。

 到着二日目には魚を二十三尾とプランテーン(バナナの一種)と御飯。
 三日目には大根二十七本とひな鳥三羽と雄鶏一羽。
 七日目には大豆三百六十一カティー
 (カティーは中国・東南アジアの重量単位で、一カティーは約六百グラム)
 と米五ピクル(ピクルは中国・タイの重量単位で六十キロに相当)。

 なんとこれが総量であったのだ!」

「『此度我朝の人来る者総て七十七人なり、
  大抵半は皆彼(アメリカ人)悪む者なり、
  然りと雖も其実を知るに及ては人皆前非を悔ひ夢のさめたるか如し
  (福島義言「航米日記」)』 

 このように使節一行は渡米を機に、四海兄弟の観念に目覚める。
 そして魂を奪われることなく、仁と義とをもって異邦人に接すれば、
 かれらも日本人を尊んでくれると思うに至ったことも、
 大きな発見であり、人間観の変化でもあった」

「使節一行が日本を発って約二カ月後、
 条約書批准の最高責任者である大老井伊直弼が
 水戸・薩摩の浪士十七名のテロに倒れ、
 一行が万延元年秋に帰国したときには尊王撰夷の焔が盛んになっており、
 かれらの豊富な経験と見聞して得て来た新知識を世に知らせ、
 かれらの耳目を開こうとすることは遠慮せねばならぬ情勢であった。

 一行のもたらした見聞は、
 政治的には幕府の政治に何ら直接的影響を与えはしなかったが、
 参加者の中からやがて新生日本の文化建設と近代化の柱石となる
 福沢諭吉、勝海舟、小栗上野介、赤松大三郎、中浜万次郎
 などの人物が出た事実を顧みるとき、
万延のアメリカ紀行は今日のわれわれには、
 まことに大きな意義を有するように思われる」

********************

以上で、『万延元年の遣米使節団』を終わります。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

ナイス

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック