etude66

こんなふうに考えています。

いままでみてきたように、
幕府はどの藩よりも
最新の西洋情報に触れていたはずです。

出島を通じて西欧情報の収集に努めていたでしょうし、
ペリーにせよプチャーチンにせよ、
直接交渉に臨み、蒸気機関車の模型を贈られて、
その科学技術に目を見はったのも
幕府でした。

そういう意味で、
幕府は最も開明派であり、
深く知るがゆえにその軍事技術を恐れて避戦論に傾き、
開国止むなしと覚悟していたのでしょうか。

つまり、攘夷をとなえる諸藩の無知を
苦々しく思っていたにちがいありません。

しかしそれでは、
世界情勢やその科学技術に通暁していることが、
むしろ知りすぎていることが、
外交判断を弱腰にさせていたのかもしれません。

攘夷の蛮勇のほうが、
欧米列強にとって
交渉に値する姿勢に見えたのかもしれません。

薩英戦争、下関戦争の後に、
イギリスが薩長に接近したことを言っているのです。

ヨーロッパは、
諸国の興亡の歴史であり、
すなわちそれは絶え間ない戦争の歴史であることを
意味しています。

さらにイスラムや、モンゴルとの戦いを加えれば、
それは異文化との激戦の歴史でもありました。

日本が260年の平和を満喫しているあいだに、
欧米列強は実戦をもって戦略戦術を磨き、
兵器を進化させて、
蒸気船の巨艦に乗って開国をもとめてきたのです。

かれらの死闘の歴史が、
弱腰の避戦論者よりも、
攘夷の旗を掲げて刃向かう雄藩の
蛮勇を好んだのかもしれません。

外交交渉に値するもの
と捉えたのかもしれないということです。

今日は、文久三年(1863)の
遣仏使節団の記録をご紹介しましょう。

まずは、おなじみの珍道中から。

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「○○○○○○○のためのエチュード」

連載66回

(『幕末遣外使節物語』 尾佐竹猛)
 遣仏使節 文久三年十二月~文久四年七月)

「せめて粥にてもほしく思へども我が家来とても
 死人の如く物の役にはたゝず、
 そちの働にて空腹をしのがせくれと、難有仰を蒙り、
 委細かしこまり候と、
 日本より持参のかこひ米三十俵の内より少々孤み出し、
 水なければ海水を汲上げんとせしに、
 波荒く我体海中に陥らんゆへ縄を以て我体を帆柱に結ひ、
 つるべをもつて海水を汲上げ、
 斯てへんてこなる粥を掠へたり、
 まづ一番に御奉行、夫より次第に家来連中まで振舞ひけり、
 衆人の喜び実におのれ一世一代の功名なり、
 皆々右の粥を食する有様御奉行はじめはばかりながら
 乞食の飯台に付きたる如く也」

「どうも己れの手が臭いがどういふ繹か、といふて聞かれる、
 塩田は『ゴゼンは食事の前に何方にいらつしやつたか』
 『ウム雪隠に行つた』
 『然ふですか』
 『それから手を洗つたのですけれども、
  どうも此処に釆てから臭くてならぬ』、

 それから塩田がその手を嗅いで見ると、
 正しく小便の臭ひがする。

 塩田が手を洗ひなさつたかと聞くと
 『洗つた』 
 『何処でお洗ひなさつた』
 『手水場で洗つた』
 これで間違が正しく分つた。

 夫れは小便壷が一寸した高い棚の上に載せて在つた。
 日本人の習慣として雪隠に行けば手を洗ふに極つて居るから、
 そこで何処か手を洗ふ所が無いかと思つて見ると、
 棚の上に壷があるから手を洗ふと思つて両手を挿込んで、
 そして手拭で拭いたが、是が正しく小便であつたのであつた。
 夫れが判つて大笑ひ大騒ぎとなつた」

「さて蒸気車のはしる道は都て繊の棒を一面に敷たるものにて、
 其費財幾千万といふを知らず。
 さて、蒸気車のはしる事蒸気船よりも一倍の如く実に飛鳥の如し。
 且此辺は往来にテレガラフといふもの頭上に有て
 千万里の遠きをも一瞬の間に達す。
 是皆道の傍に於て丸太を一町ごと立て、
 是より続て千里にかよふ、其仕掛奇々妙々なり、
 所謂ヱレキテルの類ならんか」

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きょうはここまで。

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