etude75

ワシントンに着きました。

そこへ着くまでに
彼らはさまざまのことを体験したのです。

アメリカは建国して間もない国ですから
文化的には日本のほうがすぐれていると
彼らは感じたはずです。

文化とは優雅さのことですから
西部開拓史のころの米国人より
彼らの立ち居振る舞いは
遙かに洗練されていたでしょう。

しかし、物質文明においては
圧倒的な格差があると思い知らされたはずです。

極論すれば、科学の力。

黒船以来、
その途方もない科学の力に腰を抜かしたのが幕府、
無知ゆえに攘夷を唱えて戦い、
敗北して一転開国に豹変したのが薩長。

薩摩の集成館、肥前の反射炉などのように
尊皇の雄藩は幕末からさかんに科学を取りいれていました。

明治維新は
薩長土肥の科学の勝利であったとも言えます。

土佐の坂本龍馬も
勝に感化されるまでは攘夷を唱えていましたが、
万延元年に咸臨丸で渡米した勝の世界観に触れて、
たちまち神戸海軍操練所に弟子入りするのです。

実際の勝は、
咸臨丸では船酔いに苦しめられ、
サンフランシスコを訪問しただけで帰国しましたけれど、
傑人はその都市を一瞥して、
欧米物質文明の脅威を洞察したのでしょう。

龍馬はもともと新しい物好きで、
土佐で朱塗りの長刀が流行しているときには
短刀を帯びて自慢し、
「それも時代遅れよ」と短銃を懐に入れ、
さらに「これからはこれを持つべき」と
『萬国公法』を取りだして見せたと言います。

稚気愛すべき坂本龍馬。

きょうはちょっと
箸休めのつもりで読んだ坂本龍馬語録から、
引用しましょう。

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『龍馬語録』木村幸比古

「父八平宛て・嘉永六年 (一八五三) 九月二十三日

 金子御送り被仰村、何よりの品に御座候。
 異国船処々に来り侯由に候へば、
 軍も近き内と奉存候。
 其の節は異国の首を打取り、帰国可仕候。
 (お金をお送りいただき、何よりでございます。
  外国船がところどころにやってきていますので、
  近いうちに戦いがあると思います。
  そのときは外国人を討ち取って帰ります)」

「乙女宛て・文久三年 (一八六三) 三月二十日

 日本第一の人物勝燐太郎殿という人にでしになり、
 日々兼而思付所をせいといたしおり申侯
 (日本第一の人物である勝海舟先生という人の弟子になり、
 つねづね思い描いていたことに精を出して励んでおります)」

「乙女宛て・文久三年 (一八六三) 六月二十九日

 姦吏の夷人と内通いたし侯ものにて侯
 (悪い役人が外国人と内通しているということです)」

「権平、乙女、おやべ宛て・慶応元年(一八六五)九月七日

 西洋火術ハ長州と申べく、小し森あれバ、野戦砲台あり、
 同志を引て見物甚おもしろし
 (西洋式砲術といえば、長州だ。
  少し森があれば野戦用の砲台がある。
  同志を率いて見物したが、とてもおもしろかった)」

「権平、乙女、おやべ宛て・慶応元年(一八六五)九月七日

 当時長州ニ人物なしと雖、桂小五郎ナル者アリ。
 故に之に書送リケレバ、
 早速ニ山口ノ砦を出来り候
 (前は長州に人物はいないと言ったが、
  桂小五郎という者がいる。
  この人に書状を送ったところ、
  すぐに山口に砦ができましたよ)

「長州藩士木戸孝允宛て・慶応二年(一八六六)二月五日

 表御記被成候六條ハ、
 小、西、両氏及老兄、龍等も御同席にて談論セシ所ニて、
 毛も相違無之侯
 (表に記された六力条は、
  小松帯刀、西郷隆盛、
  および木戸孝允、私龍馬らも同席して論議したもので、
  少しもこれに相違することはありません)」

「木戸孝允宛て・慶応二年 (一八六六)二月六日

 去月廿三日夜伏水ニ一宿仕侯所、
 不斗も幕府より人数さし立、
 龍を打取るとて夜八時頃二十人計寝所二押込ミ、
 皆手ごとに鎗とり持、
 口々二上意々々と申侯ニ付
(先月二十三日夜、伏見に一泊しましたが、
 はからずも幕吏が来て、
 龍馬を討ち取ると言って夜八つ時ごろに二十人ほど寝所に押し込み、
 皆手に鎗などを持ち口々に上意であると言い…)」

「権平、親類一同宛て・慶応二年 (一八六六)十二月四日
                                         けつして
 幕府大目付某が伏見奉行へ申束るにハ、
 坂本龍馬なるものハ決而ぬすみかたリハ致さぬ者なれども、
 此者がありてハ徳川家の御為にならぬと申て
 是非殺す様との事のよし。
 此故ハ幕府の敵たる長州薩州の間に往来して居との事なリ
 (幕府大目付の某が伏見奉行へ言って来たのは、
  坂本龍馬という者は決して盗み騙しをする者ではないが、
  この者がいては徳川家のためにならないと言って、
  是非殺すようにとのことである。
  この理由としては、
  幕府の敵である長州と薩摩の間を
  行き来しているためだとのことである)」

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きょうはここまで

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