etude112

ロシアの南下政策。

『ペルリ日本遠征記』には
それについてこのように書かれています。

「もし同国(ロシア)が日本を領有したならば、
 世界に比類なく卓越した無数の港を有することとなり、
 その資源を以て太平洋の貿易を支配したことだろう」

寛政四年(1792)のラクスマン、
文化元年(1804)のレザノフなどが
通商を求めて日本を訪れましたが
幕府はそれを拒絶します。

やがて嘉永六年(1853)、
ペルリの来航に遅れること一ヶ月半、
プチャーチンが長崎に入港したことはすでにふれました。

『ゴンチャローフ日本渡航記』を憶えていらっしゃいますか。

あのときプチャーチンとの交渉にあたった川路聖謨のことが
とてもなつかしく思いおこされます。

川路との交渉はまとまらず、
翌年にも日本を訪れますが、なお条約の締結にはいたらず、
それはようやく安政元年(1855)になって
日露和親条約として締結されるのです。 

幕末日本の混乱に乗じて
突然ロシアは対馬に上陸してきます。

小栗がアメリカから帰国して五ヶ月ほど経った、
文久元年(1861)二月三日のことです。

ロシア兵は日本人を殺し、婦女子を陵辱して、
やがては住民を拉致し、
多くの砲台を築いて対馬を軍事拠点化しようとしたのです。

(ちょうど韓国による竹島占拠のように)

安藤信正は小栗を急派して
ことの収拾にあたらせようとします。

軍事基地化を目論んでいるポサドニック号艦長ビリレフは
小栗に無理難題をふっかけてきます。

ロシア兵の乱暴狼藉、艦長ビリレフの執拗な要求に、
「私を撃ち殺すなりしたうえで、好きにされよ」
小栗がそういい放つと、
さすがのビリレフも二の句がつげず会見は終わりました。

やがて老中安藤信正の機略で、
イギリス公使オールコック(『大君の都』の著者)
に働きかけてロシア艦を追い払うことに成功します。

後に両国は、
日露戦争で雌雄を決することになるのです。

ロシアの執拗な南下政策は、
第二次大戦後の混乱に乗じて強奪した千島列島を
今なお不法占拠していることでも明らかです。

ロシアの対日政策について
ペルリの『日本遠征記』にはこのように書かれています。

********************

『ペルリ提督 日本遠征記』(一)エム・シー・ペルリ

支那諸海湾及び日本への合衆国遠征隊司令長官
1853年、1854年、日本に来航。

「だが数艘の軍艦からなるロシアの一艦隊がコペンハーゲンに居た後、
 ほど遠からずして、
 同艦隊の士官が自分達は日本群島の海洋内に五年間留まるやうに
 命ぜられたのであると語つたことは全く確かなことだ。
 それ故に非常に大きなロシアの海軍力が太平洋及び
 日本附近に集注されてゐたのであつて、
 かくて期待されるペルリ提督の日本訪問の際に
 その海洋に留つて居たのであつた。
 ロシアは黙々として自国の政策を遂行してゐるのだ
 と憶測してゐた人もない訳ではなかつた。
 もし、ペルリ提督が不幸にも平和的企図に失敗して
 日本と相敵封するに至つたならば、
 ロシアほその調停をすることもなく直ちに同盟者として日本に援助を輿へ、
 もし成功したならば適当な時期に
 日本全国を併呑しょうとの意向を抱いてゐたのである。
 信頼をうけてゐる時をよい機会として、
 潜かに同王国の或る地方に地歩を獲んとしてゐたのであつた。
 日本を占有し又はその国政を支配することが
 ロシア虹とってほど重要な列強は、他の半球にはない。
 ロシアは日本諸島の一方に位し、合衆国が日本の他方に位してゐる。
 太平洋は膨大な通商の舞台たる運命を担ってゐる。
 ロシアはその位置の上から大いに海から遮断されてゐて、
 易々と大西洋に接近し得ない。
 然し日本のやうな太平洋上の港が輿へられるならば、
 ロシアが世界の海軍力を統制するに至るだらうと期待し得るのである。
 それ故に吾が国と日本との友交関係及び日本に封する吾が国の勢力は、
 ロシアの将来の計画を実質的に阻害することにならう。
 従つて吾が全行動を監視するために、
 ロシアが先づ登場したのであつた」

********************

きょうはここまで。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック