etude152

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『幕末政治家』は
明治半ばに書かれたものですから、
その文体は
黙読よりも音読に向いているように感じます。

先日も述べましたが、
著者の福地源一郎は長崎の医者の子で、
幕府通詞森山栄一郎から英語を学び、
万延遣米使節団、文久遣欧使節に参加しています。

例の岩倉使節団にも
一等書記官として名を連ねていますから、
福澤のように
英語の才を充分に発揮した者のひとりといえます。

やがて新聞社に入り、ジャーナリストとして活躍、
後にその社長になって、
ついには政界にも進出します。

『幕末政治家』は彼の晩年の作品で、
『幕末衰亡論』もつづけて読もうと思っています。

幕末の血煙のなかを生きのびた者たちの
気魄あふれた文章に引きつけられます。

阿部伊勢が、
おそらくは癌で早逝すると、
堀田備中が老中首座となる
というところまで前回お話しいたしました。

阿部は守旧派、つまり鎖攘派、
堀田は開国派でした。

堀田正睦は
現在の千葉県佐倉市にあった佐倉藩の
五代藩主です。

ですから水戸藩と同じく太平洋に接近していて
欧米の捕鯨船のすがたを沖に見ることもしばしばでしたから、
否応なしに
異国の文明に目をひらかされていたのです。

そういう意味で、
堀田備中は開国派でした。

まさにハリスと応酬を重ねていたころの老中首座として、
守旧派の阿部伊勢と鎬を削りあいながら
条約の締結のために心血を注ぎました。

「ハルリスもはや決答の遷延を肯ぜず、
 『許否の如何に由りては国旗を捲て帰国すべし、
 余が帰国は日本に於て米国に恥を与へたる実証なれば、
 米国は之に尋ぐに兵力を以てして、
 日本の罪を問ふべし』
 と迄に脅迫したり」

「『先ず勝つか、負るか、一戦争を成して、
  然る後に国を開かば、
  国民の目も覚め、日本の士気は振興するを得べし』
 と云える、
 最も危険なる奇道を履みて、
 この日本を孤柱となさんは、
 固より幕閣の敢てせざる所なり」

もちろん幕府が戦端を開いたとなれば、
馬関戦争や薩英戦争とは比べものにならない
大規模な戦争となったでしょう。

それゆえ、幕閣はこのように結論づけます。

「『到底ハルリスの請求を拒絶して、
  費を米国に開かんは、
  我国今日に取りて不得策なれば
  不得止彼の請求に応ずるの外は有るべからず』
 と議し大抵みなこの不得止説に同意したり。

 独り岩瀬肥後守は
 『米国官吏の請求こそ好機会なれ、
  幕府従来の固陋因循の鎖国政略を打破りて、
  一大革新の政治を行はんには、
  外交の激薬を以てするに若かず」
 と公言し、
 おのれ幕閣に向つてハルリスの代言と成て、
 出府拝謁の必要なるを弁論せる迄に至れり」

(この「おのれ幕閣に向つて」というところが 
 どうにも可笑しくて、
 何度読んでも笑ってしまいます)

しかし「不得止開国」
とはいかにも緊迫した世界情勢を
よそ事のように考えている幕閣らしい表現です。

さて、幕府は勅許を得ようとします。

しかし水戸老公や長州などの攘夷論に説き伏せられて
幕府の画策はことごとく失敗し、
朝廷の勅許はなかなか得られそうもないのです。

「『到底条約勅許は得べからず。
  遷延の間に英仏の軍艦も渡来し、
  其為に外患を惹起しては、
  幕閣が当初より苦心したる平和開国の国是は
  水泡に属すべし。

  寧ろ歓を京都に失ふとも、
  日本全国の安寧を破る可からず。

  期限に至りて勅許なくば、
  直に調印の一事あるのみ』
 と主張したりければ、
 幕僚は幾ど此説に同意して掘田の決心を促すに至れり」

そうして最後に楽観論者の堀田は自ら上京して、
勅許を得られず、
一敗地にまみれて、
ついに老中首座を井伊直弼に譲ることになります。

いよいよ、
吉田寅次郎斬首の、
安政の大獄が近づきます。

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