etude166

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カッテンディーケは帰ってしまいました。

伝習所閉鎖の通告が幕府から届いたのです。

おそらくは権力を中央へ集中させることが
幕府の主目的だったのでしょうけれども、
財政が窮迫していたことも
伝習所を閉鎖した理由のひとつでしょう。

その幕府の金庫が空になった原因として、
カッテンディーケは
ハリスの責任を追求しています。

カッテンディーケは
「一分銀が兌換貨幣である」ことを看破して
このように正鵠無比な為替認識を書いています。

「日本は鎖国制度のために、
多年銀の必要に迫られながらも、
 それを輸入することができなかったために、
 銀貨をだんだんと小さくして行った。

 それがため、
 古来一貫六百文に相当した一歩銀は、
 ほぼ一ドルに匹敵するから、
 その量目も
 ドルと同じでなくてはならなかったにもかかわらず、
 今ではその一歩銀が、
 一ドルの僅か三分の一の量目しかない。

 日本人が外の貨幣を使わないかぎり、
 また一歩銀が一貫六百文と交換せられるかぎりは、
 一歩銀にどれだけの銀が含有されていようが、
 いっこう構わないのは知れたことである。

 政府の食指が大いに動かされる所以である。

 かてて加えて人口が激増して、
 貨幣の必要がいよいよ増大するにかかわらず、
 銀はやたらに輸出されて、
 銀山も掘り尽くしてしまった状態にたち到っては、
 政府はそうする以外に手もなかったのであろう。

 この損であり、また危険でもある政府の措置は、
 アメリカ総領事ハリスが、
 ヨーロッパ人とは別の見解を持っている日本人に、
 貨幣と貨幣と互いにその量目を秤って、
 始めて正当なる貸幣価値というものが定まるのである
 という道理を識らしたのが元であった。

 この規定を条約中に掲げたことが、
 そもそも失錯であった」
 (『長崎海軍伝習所の日々』)

カッテンディーケに選任されて
軍医として教鞭を執ったポンペが
ハリスの詐術を告発する文章を
欧米の各新聞に投稿しつづけたことは
以前ご紹介しました。

だいたい貨幣の同量交換を条約に盛り込むなど
世界に例のないことなのです。

「一ドル三分」の同量交換がもたらした
幕末日本の地獄について、
さらに詳細な説明がつづきますが、
それは割愛して
ハリスが犯したもうひとつの罪を断罪する箇所を
紹介します。

日本総領事にまったくふさわしくないハリスの、
歪んだ人間性があらわれた事件です。

「ハリスは下田港を出帆の際、
 幕府の同意を得て、
 二名の日本人の召使を
 乗船ミシシッピー号に連れて行った。

 そうしてハリスは、
 支那に向かい出帆の節には、
 右二名の召使を日本に残すことを誓約したのである。

 しかるに、いよいよ彼が上海に向かい、
 出発せんとするに際し、
 長崎奉行が右二名の日本人引渡しを要求するや、
 ハリスは頑としてその要求を斥け、
 日本の国法を蹂躙したのである。

 ドンケル・クルチウス君はむろん怠りなく、
 事件の顛末を奉行に照会したのであったが、
 奉行は長い間の躊躇の後、
 ハリス君が、
 確かに許可も得ずにやったことであることを言明した。

 時を同じくしてまた、
 ロシヤ兵収容所の中に住んでいた一人のフランス商人が、
 本人の同意の上かどうか判らないが
 お米さんという娘を伴れて、
 密かに上海に出発してしまった。

 そこで市中では大騒ぎが起こり、
 ロシヤ兵収容所の監視の役を仰せ付かっていた役人どもは、
 全部捕えられた。

 この種の事件がどう裁かれるか、
 我々は到底その成行きを知ることはできないが、
 いずれにせよ、
 右のフランス人は、
 ただお米さんを伴れ出しただけでなく、
 その娘の一家全体を不幸のどん底に陥れ、
 かつそれがため幾多の役人および奉行をさえ、
 すこぶる苦しい破目に陥れたことは否めない事実である。

 ましてや同人はフランス人として、
 未だ日本に居住する権利を有しなかったのを、
 特別の計らいによって
 入国を許された人物であるのを知れば、
 ますますもって同人の行為は許すべからざるものである。

 これもつまるところ、
 アメリカ総領事ハリスの無責任なる行為の結果であって、
 断じて日本人を外国人に親しましめる途ではない」
 (『同上』)

ハリスが幕末日本に飲ませた数種の毒は
じつに日米修好通商条約締結から半世紀後の
1911年(明治44年)、
日米通商航海条約の調印まで
われら日本国民に塗炭の苦しみを与えつづけたのです。

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