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2月13日は茂木健一郎先生の講演会の日です。


最後のオランダ商館長ドンケル・クルチウスが
長崎の出島に到着したのは
嘉永五年(1852)、
ペリー来航の前年のことでした。

オランダ国王ウィルレム三世の意向を伝える
オランダ東インド総督の信書を携えて、
アメリカの黒船が日本に迫っていることを
長崎奉行に知らせようとしていたのです。

鎖国を国是としていた幕府は、
そのような信書を受け取ることすら拒みました。

ましてや返書など
望むべくもありませんでした。

長崎奉行とドンケル・クルチウスの
息詰まるようなやりとりが、
総督宛の書簡や覚え書きのなかから
立ちのぼってきます。

(数日前にスキャナーが壊れて
 原文をそのまま引用することができません)

信書の内容はここでは明らかにされてはいませんが、
総督宛書簡に
「アメリカ人の企図に関する記事」
と書かれていますので、
ペリー艦隊の情報が
信書に記されていたものと思われます。

もっとも、
ロシアのプチャーチンも、
ペリー艦隊の情報を察知して訪日を決めたのでしたから
オランダがそれを知っていてもなんの不思議もありません。

ただ、
幕府だけが、
その情報を耳にしても、
その後その対応策を講じたという痕跡は
認められないのです。

オランダ商館から幕府へ、
詳細な「風説書」なる世界の情勢を解説する報告書を
常に提出させていたのですから
ペリー来航に関しても
幕府は事前にそれを相当詳細に知っていたはずなのです。

世界は揺れうごいていたのに
幕府はまったくの無為無策でした。

ちょうどそのころ、
バルカン半島のモンテネグロ公国がオスマントルコへの攻撃を
開始しました。

クリミア戦争の緒戦が始まったのです。

そのさなかに、
ペリー艦隊は日本をめざし、
プチャーチンのロシア艦隊もそれを急追していました。

ロシアはやがてバルカン半島で英仏に敗北するのですが、
それはドンケル・クルチウスが
信書を携えてくる嘉永五年の三年後、
安政二年(1855)のことです。

つづきはまた明日。

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