山岡鉄舟鉄扇(7)最終回

画像
(写真は 大関勝平長男正夫と石井一松長女良子の浮月楼での結婚式写真。)

 上段中央 河村小次郎(大関勝平弟)
 上段左  直参旗本大草家の二人
 中段中央  石井一松(陸軍中佐・直参旗本石井兼正嫡男)
 中段中央右 大関勝平(坂部村地主大関勝蔵長男)
 中段右端  河村千年世(最後の御林守河村宗平長女)
 下段左から二人目 石井まさ(牧之原開墾方副隊長大草高重末娘・石井一松妻)
 下段中央左     大関良子(石井一松長女・大草高重孫・大関正夫妻)
 下段中央右     大関正夫(文部官僚・大関勝平長男)
画像
(御林守河村家近現代家系図)

山岡鉄舟鉄扇(7)最終回

祖父が中條克太郎景明から
山岡鉄舟鉄扇を拝受したときの免許之証に、
大関小次郎、とあるのは、祖父の旧姓が大関だからです。
つまり私の祖父は曾祖父河村宗平の婿養子なのです。

祖父大関小次郎は静岡師範学校在学中、
中條克太郎景明から真剣の指南を受け
生徒でありながら静岡師範学校撃剣助教を命じられていました。

ちょうどそのころ、曾祖父河村宗平は、長女の婿として、
維新以後滅びゆく御林守河村家を再興するために、
近隣で最も強い男、を探していました。

偶然、牧之原の土地係争問題で知遇を得た中條景昭の紹介で、
景昭嫡男克太郎の弟子大関小次郎と出会いました。

祖父小次郎は静岡師範学校を卒業し、
のちに明治大学で学んだ後、
河村家に入籍して十三代河村小次郎となります。

その後、焼津・藤枝などの小学校で訓導、校長などを歴任し、
晩年は金谷町教育委員長などを務めたあと、
日之出町・大井町の自宅に住みました。

さて明治37年4月に
祖父に心形刀流免許之証を授けた中條克太郎景明とは
どのような人物だったのでしょう。

父中條景昭の没後、
中條克太郎が
旧制榛原中学(現榛原高校)の撃剣部(剣道部)師範を務めたことが
『榛原高校百年史』に次のように記されています。

明治35年11月30日
 講武館(「春風館」)
 開館式(徳川士族寄付・中條克太郎設計・二八坪)挙行。
 撃剣部創設、師範中條克太郎、弟子と共に指導に当たる

とあり、その「弟子」については『遺臣の群像』(塚本昭一)の中で
直参旗本石井兼正末娘・佐藤かうの『かうちのむかしばなし』を引用して、
このように記しています。

 私の印象に残っている小先生(克太郎)は、
 父親(景昭・明治二十九年没)が亡くなられたとき、
 遺物を私の父に届けに来たときです。
 内塾生の大関勝平(坂部村の方で小先生の一番弟子でした)を伴い
 喪明けの挨拶に来た時の姿です。
 小さい肩を聳やかし、からだを振って偉そうに歩く方でした。

この克太郎の一番弟子・大関勝平が、私の父方の祖父です。
つまり私は大関勝平の実の孫であり、
大関勝平の弟河村小次郎の孫でもあるのです。

(なにがなんだかわからなくなった方がいらっしゃるでしょう。
 もう少し混乱させてあげましょうか。
 私には、祖父祖母それぞれ三人ずついるのです。
 というのは
 曾祖父河村宗平の長女である祖母千年世と祖父小次郎との間に子供がなかったので
 私の両親はふたりとも河村家の養子なのです。
 ということで、私に流れる御林守河村家の血は、
 曾祖父河村宗平の次女喜悦の娘である母から受け継ぎました。)

曾祖父河村宗平は
苗字帯刀で禄を食む最後の御林守として中條景昭と出会い、
大関勝平・小次郎は剣の道で中條克太郎と出会い、
その直参旗本中條家の仲立ちで、
河村宗平と大関勝平・小次郎とが出会うことになったのです。

平成8年3月3日に島田市阪本の種月院でとりおこなわれた
中條景昭百回忌法要に参列したとき、
中條家当主中條昭夫様が、
その場で87歳の母君に電話で確認されて、
中條克太郎景明の諱(いみな)は
「景明(かげあきら)」とお読みすることを
教えていただきました。

また昨年、平成28年11月の「初期島田茶業史展」にお見えになった
島田市内の茶商の方からいただいた契約書の中條克太郎の印が、
篆書体の「景明」となっていて、諱を再確認することができました。

それではこれで、
中條克太郎景明から祖父小次郎が拝受した山岡鉄舟鉄扇をめぐる
幕末明治を生きた人々の物語を終わります。

おしまい。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック