御林守河村家を守る会

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<<   作成日時 : 2009/04/28 07:57   >>

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攘夷、その言葉のひびきは、
日本人の琴線をここちよくふるわせる何かがあります。

ユダヤの選民思想にも似て、
内向的でひとりよがりな思想です。

神州日本の土を夷狄に踏ませてはならぬ、
という同胞愛に盲いた思想です

万延元年のころ、
黒船来港をうけて、
日本にはそのような攘夷の風潮が世に満ちていました。

おそらくそれが民衆の偽らざる心情だったのでしょう。

私が同時代にいたとしても、
攘夷思想に染まっていたにちがいありません。

しかし、そのころ、
幕府から派遣された遣米使節団は、
アメリカの政府や市民たちの熱狂的な歓迎をうけて、
トミー(立石斧次郎)などは
すっかり米国かぶれになってしまいました。

考えてみれば、
すでに嘉永6年(1853)に、
ペリーやプチャーチンが持参した蒸気機関車の模型を
目を丸くしておどろいたのは幕府の役人たちです。

ましてや、遣米使節団は、
その蒸気機関車に乗車して、生の西洋文明にふれたのです。

攘夷などとうてい無理であることを
かれらは身にしみて知ったはずです。

幕府の外交が弱腰で、
雄藩の姿勢がかたくなな攘夷であったのは、
そのへんに理由があったのかもしれません。

幕府は、開国やむなし、と考えていたのでしょう。

ともあれ、
遣米使節団は日本ブームを巻き起こすほどに
好意的に受け入れられたのです。

********************

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載64回

(『万延元年の遣米使節団』 宮永孝)
 1860年3月〜9月 世界一周して帰朝)

「ご馳走としては、
 すっぽんのスープ・オオヒラメ・ハト・鶏・ゆでハム・大エビのサラダ
 などが供され、飲物としてはシャンペン・シェリー酒・ビールなどが出た。
 『フランク・レズリのさし絵新聞』によると、この目招かれた日本人は、
 すっぽんのスープに舌つづみをうち、ビールを相当飲んだ、とある。

 一同は大統領も会食しているので、
 少しはつつましやかに食物を口に運ぶのだが、
 食べ方がわからぬときは、となりの婦人の食べるのを横目で見ながら、
 その真似をして食べた。これはわれながら滑稽であった。
 皿は取っ換え引っ換え十四、五回も出た。
 杯酒もすんだころ、
 ガラスの大きな椀に水が入つたもの(フィンガーボール)と
 白布が出て来た。
 これはどうするものかと、村垣があたりを見渡すと、
 レイン嬢が手を洗い、口のあたりをすすいだので、その真似をした。

 森田はどうするかと思ったら、
 手早くその椀を手に取るや、中の水を飲んでしまった。
 それを見てあわてた小栗がかたわらで袖を引くと、
 やっと気がついて手を洗った。
 お互い顔を見合わすと、
 おかしくて今にも吹き出しそうになったが、笑いをじっとこらえた」

「本日、フィラデルフィアは、
 日出るところの国からやって来た
 新見豊前守と七十五名の日本人を迎えるに当たって、
 日本色一色に塗りかえられた」
(『ニューヨーク・タイムズ』紙)

「ワシントンを発つ前、
 二百梱ほど船便であらかじめニューヨークに送ったという。
 この日の荷造りは約百梱で、
 そのほとんどが随員らの持ち衣装と日用品であった。
 
 またアメリカ女性のアイドルであるトミーがもらった名刺だけでも、
 旅行カバンが一杯になるはどもあったし、
 ラブレターの数も相当なものであった。
 その多くは香水が振り掛けてあって、開くとぷーんといい匂いがした。
 手紙の中には署名の代わりに、
“You know who”(ご存知の者より)と書いてあるものもあった」

「やがて汽車は、
 バーリングトンを経てボードンタウン
(ニュージャージー州中西部の町。デラウェア川岸に位置)の
 ビショップ・ドゥン女学校のそばを通り過ぎるとき、
 速力を落とし、数百名の女子学生たちに日本人を見させた。

 一目見ようと、線路のそばに集まっていた
 同校の十二歳から十八歳までの少女たちは、
 いっせいに「トミー!」「トミー!」と歓声をあげ、
 そばをゆっくりと進む汽車の窓から花束や苺が入った籠などを投げ込み、
 手を振りながら別れを惜しんだ」

「日本使節団一行の通り路であるブロードウェイ界隈は
 いちばん人出が多く、路上ばかりでなく、
 家の窓や屋根の上まですべて人、人で埋まっていた。

 沿道のどの商店も午前中に早々と商品を片付けてしまい、
 顧客のために日本人一行を見物させようと椅子を並べ、
 観覧席を設けるしまつであった。

 抜け目のない連中はこのときとばかり観覧席(座席や立ち席)を作り、
 一人一ドル取って見学させた。

 また呼売人などは街角でキャンディや
 日本のクリーム・パイ≠竍日本の扇子≠ニ称するものを、
 子供の売り子などは日の丸の旗″などを商ったが、
 それらは飛ぶように売れた。

 この日は、少々暑く、ほこりつぼかったので、
 近くの各ホテルや酒場なども大いに客が入り、各々の店々もうるおった」

「正使新見、監察小栗、森田、成瀬ら四名は、
 肘までもある長い灰色の手袋をゆっくり、上品にとると、
 威厳にみちた態度で、ウッド市長とアメリカ風に握手した。
 その間、四人のうしろにいる随員らは深々とおじぎをしていた。

 使節たちはさっばりとしたタルマ外套″(羽織)に無地の着物を着、
 白足袋をはいていた。
 腰には立派な造りの刀をたばね、それがその威厳を高めていた」
(『ニューヨーク・ヘラルド』紙)

「使節らの腰からは刀の柄が二本突き出ていたが、
 凧刀は日常用いているものとは異なり、豪華な造りであった。
 またかれらは、
 馬車に乗っていたとき見事な刺繍を施した絹製の長手袋をはめていたが、
 市長の前に出たとき、それを取った。
 その折手袋から現われた手は小さく、華香できれいであった。
 婦人がこのような手を持っていたら
 きっと自慢するような手であったという。

 頭の前面はきれいに剃ってある。
 頭髪は油をつけ、日本風に結ってある。
 全体を観ると、日本の紳士たちの風体は趣味がよく、
 芸術的でさえあ言と報じている」

「ニューヨークで日本人と近づきになった者は、
 日本人のうちに上品さ、育ちのよさ、知性などを見出し、
 深い尊敬の念を抱いたという。
 とくに称賛の的となったのは、日本人の礼儀正しさであった。
 そして、この点に関して、ある紳士のいった言葉として引いているのは、
 「大勢の人間の贅言より、日本人の一つのおじぎ、
 一つのほはえみは言葉以上のものである」といったものである」
(『ニューヨーク・ヘラルド』紙)

「加賀藩士佐野鼎は、普請役益頭駿次郎尚俊の従者として渡米した者だが、
 たまたまこの書店に来ていたシャビン師が、佐野の選んだ本を知るに及び、
 その知的能力に驚いたようだ。
 「佐野は使節団の中でいちばん学識に富んでいるかも知れぬ」
 と報じている」

********************

きょうはここまで。

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