御林守の歴史(古文書 天保八年八月、1837)

『金谷町史』資料編二 近世 一三二 御林守尋方に関する届書(縦)

御尋ニ付以書付奉申上候

榛原郡大代村御林守苗字帯刀仕候義御免有之候哉、亦者前々ゟ之仕来ニ有之候哉、由緒巨細取調可書上旨被 仰渡承知奉畏候、然ル処当村御林之儀当村渡辺藤兵衛・横岡村加藤武右衛門両人御給扶持米五石八斗ツゝ年々頂戴相勤来候処、享保七寅年御割替ニ而掛川様御預リ所ニ相成候処、御公儀様御林之儀ニ付、無解怠御役人御廻村有之、両人ニ而者相勤兼、其段願上候所、其節山中庄兵衛と申もの増役相立、御扶持米之儀者両人江被下候分三人江割合相勤来候処、其後元文四未年猶又野田勘兵衛様御支配ニ相成候得共、御林守之儀者前々之通相勤来、然ル処横岡村之儀者五拾ケ年已前申年御割替ニ而大草能登守様御知行所ニ相成、其節之御支配大草太郎左衛門様中泉御役所より退役被 仰付、跡役河村市平江被 仰付、前々之通苗字帯刀仕、其後四拾年已前卯年渡邊藤兵衛病死嗣子無之ニ付、其節之御支配御役所江願上、同人弟渡辺三郎右衛門跡役相勤、三人共往古之通リ苗字帯刀仕、御林守相勤申候、此儀元和二辰年より同戌年迄七ケ年松平紀伊守様駿府御在城之砌、大代山奥山御鷹取場ニ而、村内渡辺藤兵衛・加藤武右衛門右両人御鷹見廻リ役被 仰付、其節より苗字帯刀ニ而相勤来申候、其後御林守ニ相成候而も矢張前々之通リ苗字帯刀ニ而相勤罷在、其節被下置候御書物類渡辺藤兵衛所持罷在候処、五拾八ケ年已前安永九子年同人宅出火之節消失仕候ニ付、其節其段御支配御役所江御届申上候儀ニ而、当時御由緒書物者所持不仕候得共、三人共前々より苗字帯刀仕来候、依之此段奉仕申上候、以上

        榛原郡大代村
     天保八酉年八月 御林守
              河 村 市 平 印
             同断
              渡辺三郎右衛門 印
             同断
              山中庄兵衛   印
      中泉
       御役所


お尋ねに付き書付を以て願い上げ奉り候
榛原郡大代村の御林守が苗字帯刀を許されているのは、以前からのことです。その由緒について子細を調べ上げて書上げるべき旨、仰せつけられましたこと、承知いたしました。大代村の御林は、大代村の渡辺藤兵衛と横岡村の加藤武右衛門の両人で、毎年御給扶持米五石八斗を頂戴しながら勤めてまいりました。享保七年御割替になり、掛川様のお預かりになりましたところ、幕府役人が御林を隈なく廻られたとき、両人では務め兼ねる旨お願いしましたら、山中庄兵衛を増役にしていただきましたので、以来御扶持米は二人分を三人で分けてまいりました。その後元文四年に野田勘兵衛様の御支配になりましても、御林守は従前通り勤めてまいりました。

ところが横岡村につきましては、五十年前の割替のとき、大草能登守様の御知行所になり、その際大草太郎左衛門様が中泉御役所より退役なされ、(加藤武右衛門の跡役を)河村市平に仰せつけられ、従前通り苗字帯刀にて勤めてまいりました。その後、四十年前に渡辺藤兵衛が病死し、嗣子が無いため、お役所にお願いして弟の渡辺三郎右衛門を跡役として、苗字帯刀の御林守として従前通り三人で勤めてまいりました。
元和二年より七年間、松平紀伊守様が駿府御在城の時、大代山奥山を御鷹取場として、村内渡辺藤兵衛・加藤武右衛門の両人に御鷹見廻リ役を仰せつけられ、それ以来苗字帯刀にてお役を勤めてまいりました。その後御林守となっても、従前通り苗字帯刀にて勤め、その際下し置かれた書物類を渡辺藤兵衛が所持しておりましたが、五十八年前の安永九年に同人宅が出火したとき消失しました。それ故その時々の御支配御役所へお届け申し上げている次第です。御林守の由緒書物は所持しておりませんが、三人とも前々より苗字帯刀にてお勤めしてきましたことを申し上げ奉ります。以上
                榛原郡大代村
     天保八年八月          御林守
                      河 村 市 平 ㊞
                     同断
                      渡辺 三郎右衛門㊞
                     同断
                      山中 庄 兵 衛㊞
       中泉
         御役所

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